全訳 The Geek's Guide to the Galaxy: リチャード・ギャリオット ロングインタビュー Part 1/2

インタビューの概要とインタビューの録音された音声ファイル
http://www.wired.com/2014/03/geeks-guide-richard-garriott/

録音の文字起こし
http://www.lightspeedmagazine.com/nonfiction/interview-richard-garriott/

Thr Geek's Guide to the Galaxyのリチャードギャリオットインタビューの全訳の前半部です。
リチャードのインタビュー記事としてファンの間でも評判のものだったのでなるべく早めに訳をアップしたかったのですが、文章量が圧倒的すぎて今まで延び延びになっていました。
Ultimaの徳の概念の誕生秘話から自身の哲学、さらには今の奥さんとの馴れ初めまで、リチャード・ギャリオットにディープに迫るインタビューとなっています。


----------------------------------------------------------------------

Interview: Richard Garriott

by The Geek’s Guide to the Galaxy

Published July 2014 | 11218 words


リチャード・ギャリオットは世界初のコンピューターRPG"Akalabeth"を制作した人物です。
後に続くUltimaシリーズではゲームに最高レベルのインタラクティブ性を導入しました。
これは後の世界初のMMORPG"Ultima Online"でも大きく生かされており、インタラクティブの要素はUltimaシリーズの大きな特徴といえるでしょう。
そしてリチャードは新しいRPGの制作のためにクラウドファンディングで資金を募り、現在は最新のプロジェクト"Shroud of the Avatar"の制作を手がけています。
リチャードは"Shroud of the Avatar"をUltimaシリーズの精神的後継作と位置づけています。

このインタビューはWired.comThe Geek's Guide to the Galaxy podcastによって企画されたものであり、このインタビューのホストはJoseph AdamsとDavid Barr Kirtleyが務めます。
このインタビューのフルサイズの録音はgeeksguideshow.comで聞くことができます。
また、GGGでは他の回でもギーク向けの様々なトピックをテーマに、毎回色々なゲストを迎えて番組をお送りしています。

The Geek's Guide to the Galaxy:(以下GGG)
あなたの手がけたUltimaシリーズは、私にとってオールタイムベストのタイトルシリーズとなっています。とりわけ子供の頃のUltimaシリーズのプレイ体験は、後の私に大きな影響を与えました。
私は大学で法学と倫理学を専攻したのですが、これはUltimaシリーズのプレイ体験が私をその分野へと導いたのだと思っています。
あなたはきっと、私のような体験談を、他の人からも随分聞いたことがあるでしょう。
Ultimaシリーズはプレイヤーに大きな影響を与えるストーリーを持っていますが、あなたは一体どこからヒントを得てこれらのストーリーを組み立てているのでしょうか?

リチャード・ギャリオット:(以下RG)

ええ、そうですね。
その話題についてはまず、私からエピソードを2つ紹介させて下さい。
まず一つ目はUltima 4を発売してすぐの頃の話です。
もしあなたがUltimaファンであればご存じのことだと思いますが、Ultima 4はUltimaシリーズにおいて、さらにいえばコンピューターRPGの歴史上で初めてとなる画期的なシステムを導入したタイトルでした。
これは従来のRPGがひたすらモンスターをやっつけてお宝を収集するだけのものだったのに対し、このタイトル(Ultima 4)では、プレイヤーはゲーム中で徳のある行動を要求され、実際にゲーム中でのあなたの行動が徳のシステムによって評価されるという仕様になっています。
プレイヤーがゲームのエンディングを迎えるには、この徳のシステムに沿った行動が要求されるのです。

Ultima 4の制作中に私は開発チームや家族から随分色々なことを言われたものです。
こんなお説教じみたゲームはウケが悪いんじゃないかとか、こんなゲームシステムでは売り上げに悪影響がでるのではないか、とかそんなことをね。
しかし実際にリリースしてみれば売り上げはそれまでのシリーズの中で最高を記録しましたし、Ultima 4はシリーズの中でも屈指の存在感をもったタイトルになりました。
そして、Ultima 4を発売後してからすぐに一通の手紙をユーザーから受け取りました。
それは自分の娘にUltima 4を買ってあげた母親からの手紙でした。
プレイヤーである女の子は今までUltimaシリーズをプレイしたことがなかったそうですが、Ultima 4は当時のベストセーリングのタイトルでネームバリューも大きかったので、おそらく人気ゲームソフトのひとつとして購入したのだと思います。
そしてその母親はよき保護者としての責任を果たすため、娘がプレイしているゲームの内容をよく知っておこうと娘のゲームプレイを横から見ていたそうです。
その母親は、このゲームのプレイ体験を通して娘に起った出来事を、次のように綴ってくれています。

"どうもミスターギャリオットさん。あなたのゲームについてどうしてもお伝えしたいことがあったので、今ここにお手紙差し上げます。
小さい子供というものは、ときにウソをついたり、ものを盗んだりといった、悪い振る舞いを行うことがありますね?もちろん私の子供の場合でも、それは例外ではありませんでした。そしてこれは全ての親御さんがいつかは直面しなければならない問題でもあります。
娘はUltima 4のプレイ中にもゲームの中でウソをついたり、キャラクターに対して不誠実な行動をおこなったりしていました。
しかしこのゲームでは、ゲーム中で自分のしたことについて責任を取らねばならないようなイベントが起ります。
そして自分のやった行いが全て自分に向かってくることを、娘はゲームプレイを通して学んだようなのです。
そして、ゲーム中の行いだけでなく、現実の振るまいにも、彼女はゲーム中に学んだことを実践するようになっていきました"


その母親は娘がUltima 4のプレイを通して現実面でも良い方向へと成長があったことを、喜びとともに綴ってくれたのです。

GGG:
オンライン上でもUltimaについてのコメントを多くみることができますが、プレイヤーが子供であっても、Ultimaにおける8つの徳の概念をちゃんと理解しているようですね。
このことについてあなたはどうお考えですか?
徳のシステムができてから20年経ちますが、現在でもそれが古くさくなっておらず、そしてプレイヤー達に今もすんなりと理解してもらえていることについては?

RG:
まずこの8つの徳からなるUltimaの徳の概念は、私の作ったまったくのフィクションなんですね。
宇宙の真理の解明を目指しそしてたどり着いた、といった性格のものではなく、あくまでゲームシステムのために考えられたものです。
私はゲームシステムとしての徳の概念を考えるにあたり、まずは古典的な哲学からそのアイデアを拝借しようと思いました。

"オッケイ、じゃあまずモーセの[十戒]あたりから手を付けてみようじゃないか。どれどれ、十戒を私のゲームに取り入れたらどうなるかな?"

残念ながら十戒をそのままゲームに取り入れてしまうと、なんというか、古くささが際立ってしまうように思えました。それにどこかで見たような既視感もあります。
そして何よりも十戒の戒律だけではこのゲームに必要な何かが足りないような気がしました。

そして次に、"オッケイ、じゃあ"十戒"がダメなら、"7つの大罪"あたりからヒントを得てはどうだ?"、と私は思いつきました。
しかし、当時のホラームービーに"7つの大罪"を題材にした作品が多くあったことや、"7つの大罪"だけではやはり自分の思うようなゲームシステムを構築できないと思ったこともあり、この案もボツになりました。

そして私は、"オッケイ、こうなったら私の思う理想の徳の体系を最初っから自分で作ってしまおうじゃないか。でも、徳の中で一番基本的なものって何になるのだろう?"、というところまで考えが変わりました。

私はまず手始めに徳についての広範なリサーチに着手しました。
私は哲学に関する様々な書籍を買い込んできては、片っ端から読んでいきました。
そしてその読書体験の中から、一種のパターンが見えてきたのです。
それから私はホワイトボードとポストイットを用いて、それらの要素を整理する作業を開始しました。
ある概念が人を善と悪のどちらの方向へ導くかを分類したり、表現こそ違えど同じ意味を示す言葉を整理したり、あるいは似通った意味の概念に共通する点を見つけ出していきました。
そしてそれらの要素を整理して、徳の根底にあるものを見つけようと試みたのです。
結果、私は徳の基礎となる3つの原理を見つけることができました。
それは真実・愛・勇気です。(原文:truth, love, and courage)
私はホワイトボードの中で様々な要素を分類していった結果、これ以上分けることのできないこの3つの原理にたどり着きました。ホワイトボードの中のあるほとんどの要素は、この3つの原理から派生(ないしは3つのうちの2つから派生)していることがわかったのです。
ただし、この3つの原理だけではゲームシステム的に少し物足りませんした。
そこでこの3つの原理を基に8つの徳を導き出したのです。

先ほど私が作った徳のシステムは全くのフィクションだと言いましたが、フィクションでありながらもリサーチによって裏打ちされたものになっています。ですから、私はこの徳の体系に私は大きな自信を持っています。
この私がこの体系を作り出してから20年以上が経過しました。
現代においても徳や善行に関する本が出版されていますが、それらには全くおなじではないにしろ、本質的には似通ったようなことが結論として書かれています。
ある日私は、"ゲームで学んだ大切なこと"と題されたウェブページを見つけましたが、そのページではUltimaの8つの徳のことが書かれていました。
ですからUltimaはそのプレイ体験からプレイヤーの内面に影響を与えるようなしっかりとした思想的基盤をもったタイトルであると、私は今でも自信をもって主張することができるのです。

GGG:
哲学をリサーチするに当たって、なにか特に影響を受けた考え方や哲学者はいましたか?
また、カントの義務論や、アンスコムの帰結主義、(古代ギリシャの)徳倫理学といったアプローチの手法についても、なにか思い入れのあるものはありますか?

RG:
私は二元論からは非常に多くの知見を得ることができたと思っています。
それから、仏教の思想は私にとってもっとも思い入れのあるものです。
ただし、Ultimaの徳の体系には仏教的なアプローチの影響は見られないでしょう。
なぜなら仏教的なアプローチは、合理的な教義や原則といったものを重視せずに、一切はかわりゆくという諸行無常の観点からものごとを見るからです。
ですから、仏教的なアプローチにおいてもっとも大事なことは、結果ではなくプロセスを重視することにあると、私はそう理解しました。

3原理と8つの徳の体系を形にする際に、私は徳について書いてある書籍を探していました。
そこで作家であり詩人のカリール・ジブランの著作と出会ったのです。
ジブランはたくさんのショートストーリーを書いていますが、彼はそれらの中に善徳や悪徳、命や愛といった様々なテーマを織り込んでいるんです。
私はジブランの著作からアイデアやヒントを見いだせるのではないかと予感しました。
彼の書いたストーリーは尺こそ短いものの、徳を簡潔に描写しているからです。
そして私はジブランから多くのアイデアを得ることができました。
もちろんジブランだけでなく、他の著者の書籍からも同様に様々なアイデアを得たことを、念のためにいっておきます。

GGG:
先ほどUltima 4が一人の少女によい影響を与えたという話をしてくださいましたが、Ultimaが道徳教育のシミュレーターとして機能したように、ゲームを媒体とした道徳的な教育を学校に導入するというアイデアについて、あなたはどう思いますか?

RG:
非常に興味深い提案ですね。
ゲームを道徳的なシミュレーターとして利用するなんて今まで考えたこともなかったけれど、なかなか面白そうなアイデアだと思います。
これはフランス人である妻が話してくれたことですが、フランスの学校ではアメリカよりも道徳の教育に力を入れているんです。
倫理を題材にした寓話を教材として用い、どうして倫理が存在するのか、倫理は寓話の中でどう機能しているのか、この寓話を通して伝えたい内容は何か、といったことをクラスの授業でやるわけです。
私はロールプレイングゲームを教材として利用することは、学習にとって非常に効果的ではないかと思っています。
ゲームというものに対してどういった考えをもっているかはまずおいておき、ゲームが強力なティーチングツールとして機能することについては間違いないでしょう。
コンテンツをプレイするにしても、何かを学ぶにしても、制作者のアイデアを伝えるツールとして、ゲームは非常に効果的な媒体だと思います。

GGG:
あなたには現在お子さんがいらっしゃいますね。
自分の子供にもUltimaシリーズをプレイさせるというお考えは?

RG:
(笑)
娘にUltimaシリーズをプレイしてもらうかどうかはおいておくとして、今のゲーム制作にはぜひ参加してもらいたいと思っています。
SotAの開発にあたり、Ultimaを振り返る機会がとても多くあるんです。
また、プレイヤー達の中にもUltimaを再プレイしてくれる人が多くいるようです。
Ultimaからインスパイアされたことを、私のルーツであるUltimaのことを、ファンは話してくれるんですね。
あるファンはこういってくれました
"Ultimaシリーズを1からプレイし直すことにしたよ"
ファン達はプレイ体験をブログの記事にしたり、ツイートしてくれたりして、プレイを通して浮かんだ疑問や感想をダイレクトに私に送ってくれるのです。
そういったファンの声を聞いていると、Ultimaのストーリー性のインパクト(とりわけ4と7のストーリー)がいかに強かったかをもう一度再確認することができました。

GGG:
私はUltima 4ほど徳の概念をうまくゲームに取り入れた作品を知りません。
あなたはほかにそういったタイトルご存じですか?
また、どうしてそういったゲームタイトルの数が少ないのだと思いますか。

RG:
私もUltima 4のようなゲームは他に思いつきませんね。
Ultima 4をオンリーワンの存在にした一番の理由は、従来の路線からの脱却に成功したことにあると思っています。悪者をただ倒すような単純なものからのね。
つまり、重要なのはそのゲームにストーリー性があるかないかなんです。
特に当時のゲームに至っては、ロールプレイングゲームを含めて、ストーリー性の乏しいものばかりでした。
わかりやすい例として、ゲームが原作の映画について考えてみてください。
それらの映画で原作のゲームの良さを再現できていたものがあったでしょうか?特に戦闘のコンテンツがメインとなるようなゲームでは、まるでその良さを生かせていません。
はっきり言ってしまえば、そのゲームは映画として耐えられるだけのストーリー性を元々持っていなかったのだといえるでしょう。

ここ数十年間のハードウェア性能の進化は目覚ましいものがありました。
特に新しいハードウェアが登場すると、まず、 ファーストパーソンシューティングのゲームタイトルが登場し、話題作となります。
プレイヤーたちは手っ取り早くそのハードウェアの性能を体感することができますからね。
そしてその新しいハードウェアがこなれた頃に、もっと深いゲーム性を持ったタイトルの需要が増えてくるのです。
そうしているうちにまた新しいハードウェアが登場し、この循環が繰り返されていくわけです。
ゲーム業界のテクノロジーはもう相当なところまで進化してしまったのだから、ハードウェアや技術が進化するごとに、すべてのコンテンツを1から作り直す必要はないのではないかと思っています。
例えば、カメラのシステムだとか、グラフィックのインポートツールとか、 AIシステムとか、ユーザーインタフェースのシステムとかですね。
こういった既存の部分の再開発に時間をかけるよりも、本質であるゲーム性そのものにもっと時間をかけるべきです。
そうすればそのゲームにより深いストーリー性を持たせることもできるでしょう。

Ultimaシリーズの世界では徳が尊ばれ、さらにそれがゲームクリアにも関係してくるようになっています。
ただしゲームと違って現実の世界では必ずしも勧善懲悪が通用するとは限らない、という評価もユーザーからありました。
しかし、現実では必ずしもそうでないのに、私はゲームというバーチャルワールドでは徳が報われる世界を創造したいと思っていました。
ではその理由についてお話しします。

まず初めに、優れた書籍や映画、そしてコンピューターゲームは、それらのすべてとは言わないまでも、その多くが、リアリティを損なわない程度に向上心や善を志向したものだったと思います。
私には何年もの長い付き合いになるビジネスパートナー達がいますが、彼らの見せる態度の中には時折、徳に反するのではないかと思えることがあります。
彼らはすでに十分な成功を収めているのにかかわらず、満足を覚えることなく貪欲なままであり、ときには成功のためなら法を犯すことさえもあるのですから。

"でも、それはビジネスの世界でのことだ。勝負の世界なんだ。勝つためには相手を押しのけなければならないんだから、それはしょうがないことじゃないか"

そう言う人もいます。
しかし、私はその意見に対してこう答えるでしょう。

"Boy, それでも人の道だけは踏み外しちゃあいけないと思うぜ"
(Boy, that just feels to me unethical.)

このリアル世界での倫理をどう考えるかは、人それぞれで違うのです。

一方で私はこの問題について楽観的な見方をしています。
もちろん悪者があなたを押しのけて成功をつかむこともあるでしょう。
しかし、それぞれの業界において、極めて優れた企業・製品・人物は、おしなべて道徳的な面を持っていると私は思っています。
例えば、何百年も続くような老舗企業のことを考えてみましょう。
もちろんその時代時代によってアップ・ダウンがあり、ときにはモラルの基準さえもその時々で違っていたこともあったでしょう。
しかしそれらの企業は、目先の利益のために悪徳によって身を持ち崩すような事は、遂にはなかったのです。
これは私の個人的な考えなのですが、基本的に人間という種族は、お互いに助け合い、共に繁栄を築くようにデザインされているのではないかと思っています。
もちろんいつもいつもそうであるとは限らないけれども、基本的に人間は善を志向する生き物である、と。


GGG:
私たちはEpisode 84でもビデオゲームについてのトークをしましたね。
ところで、あなたはゲーム・オブ・スローンズについてご存知ですか?小説版のほかにTVシリーズが制作されています。
この物語は主人公のネッド・スタルクが王国の陰謀に巻き込まれていく内容になっています。
陰謀が渦巻く中でネッドは誰も信用していいかもわからない状況に置かれます。
そしてネッドは自分が道徳的に正しいと思う道を選ぶのですが、結果的にそれが崩壊を招いてしまいます。
道徳的な振る舞いが何をもたらすか、それをシミュレートするのが、あなたが手がけてきた作品(Ultimaシリーズの) のテーマですね?

RG:
おっしゃる通りです。
もちろんゲームの中で徳のすべてを語りつくすことはできません。
あくまで私が作ったゲームの世界の中で、そして私が考えている徳の概念の一部を、語ることにすぎないのです。
Ultima 4のときは、前回もお話したように、道徳的な振る舞いをしておけばゲーム進行上問題はありませんでした。また、Ultima 4では悪役といったものも存在しません。
Ultima 4の目的は徳を極め、その体現者として人々に範を示すことなのです。
まずあなたは騎士となり、人々から信頼されるように努めます。
そして、真実・愛・勇気の徳の3原理を体現する人物になるべく、プレイヤーは様々な選択をする必要があります。
Ultima 4では勧善懲悪がはっきりしています。
ですからプレイヤーはゲーム中で悪事を働くことがゲームの進行上ためにならないということを、すぐに見抜くことができるでしょう。

Ultima 4をリリースしたあと、私は Ultima 4の世界とリアル世界のギャップについて考えていました。
リアルでは、口では綺麗事を並べていても、決して善人と言えないような人が存在します。
そもそもテレビなんかに出てそういった発言をする人の多くは、善人であることをアピールするのが主な目的であり、自ら語る善や道徳の実践は二の次なのです。
さらにそういった手合いの中には(残念なことにそのかなり多くの数が)、スピリチュアルな不思議な力を持っているように見せかけるために、サクラを仕込んだ演出を使ってまで聴衆をだまそうとする輩もいます。
表では口先で善を語り裏では人をだまそうとする、もちろんそんな連中は悪だと、誰もが考えるでしょう。
(Ultima 4の世界とは違って)現実ではそういった仮面を被った悪が氾濫しているのです。

悪人が善人を装い、善を語り、見せかけの善行で人を欺く。残念ながら、現実では珍しいことではありません。
一方で、普段は気難しく、ケチで、性格が悪いように見える人であっても、いざ重要な局面では正しい判断を下すことができる人もいます。
Ultima 5ではそういった人間のグレーゾーンを表現することにチャレンジしました。
Ultima 4ではどのNPCもアバタールを助けてくれましたが、 Ultima 5では違ったものになっています。

Ultima 6では人種差別の問題をテーマとして盛り込みました。
Ultima 6には悪魔のような容貌の種族が登場します。
彼らは角を生やし、皮を張ったような翼と長い爪を持っています。
また、開始直後から彼らとの戦闘になり、彼らはあなたの命を奪おうと襲いかかってきます。
"こいつらは悪い奴らだ!"、その外見も手伝って、プレイヤーはきっとそう思うことでしょう。
実際に彼らはプレイヤーに襲いかかってきているのです。そう思っても無理はありません。
しかし悪魔のような容貌を持った彼らにも、実は人間と敵対せざるをえない理由を持っているのです。
彼らも人間達も自分こそが正しいと信じており、仮にどちらかが勝利を収めたとしても、実はそれは正当性の証明とはなり得ないのです。

私は彼らの外見を意図的にガーゴイルのような醜いものにデザインしました。
しかしゲームを進めていく中で、彼らにも家族があり、さらに独自の文化や学問を持っていることがわかってきます。
さらに物語を進めていくうちに人間たちが知らず知らずのうちに彼らの種族を苦しめるような行いをしていたことが判明します。
知らずにやったこととはいえ、実は人間側が最初に争いの理由を作っていたのです。
Ultima 6では彼らを打ち倒すだけではゲームクリアすることはできません。
Ultima 6のアバタールは、彼らと人間達を和解させることが目的(ゲームクリアの条件)になります。

GGG:
私はUltimaのストーリーは本当に素晴らしいものだと思っています。
特にUltima 7にはたくさんの徳の要素が複雑にストーリーに織り込まれていましたね。
アバタールはシリーズを通して徳のある振る舞いを求められてきたわけですが、 Ultima 8ではそれに少し変化があったように思います。

RG:
そうです。
しかしUltima 8の完成度には問題があって、未完成の部分が多いまま発売してしまったのです。
本来ならもう半年ほど開発期間に余裕があったはずなのですが。
しかし、あなたがおっしゃる通り、私はUltima 8でストーリー展開に変化を加えました。

まずUltima 8のストーリー構想のテーマとして、
「道徳的で倫理的な振る舞いが一切評価されない世界へいったとき、アバタールは一体どうするだろうか?」
という設定を思いつきました。

もちろん、アバタールはそういった世界に足を踏み入れた時も、今までと同様に徳を重んじることでしょう。
しかし、あなたがいくら徳をその世界の人々に示したとしても、彼らはあなたを評価することは一切ありません。
郷に入りては郷に従え、これも1つの方法です。
アバタールは今までと同様に徳を重んじることを選ぶこともできますが、その世界のルールに合わせた振る舞いを選択することもできます。
また、態度を保留にしておいて、その時々においてとるべき行動を考える、という選択もできます。
さもなければ、自分の重んじるスタイルを貫いたことによって殺されてしまうことさえあるのですから。
Ultima 8では、その時々によって態度を柔軟に変えることが、結果的に正しいこともあるのです。

GGG:
あなたはUltima 8のテーマをこう表現したこともありますね?
"もしあなたがある日悪魔崇拝が当然の世界に迷い込んでしまったら、とりあえずはそれに合わせなきゃね"

RG:
全くその言葉通りのことを言ったかもしれませんね。
少なくとも、そういった意味のことを発言した覚えがあります。
それから、これはUltima 8でもあったのですが、実は 私が手掛けたゲームの多くに子供のキャラクターが死んでしまうイベントを入れています。
このことはご存知ですか?

GGG:
はい。

RG:
子供の死のイベントはUltima 4から導入され、そして今日のタイトルまで全ての作品に取り入れています。
プレイヤーは子供の死のイベントに遭遇したときに、きっと焦りやストレスを感じることでしょう。
しかし私はずばりそれを意図して、このイベントを挿入しているのです。
例として、Ultima 4では最終ダンジョンにその子供の死のイベントが用意されています。
その部屋では部屋の四隅にケージが設置されており、その中には子供が閉じ込められています。
そして部屋の中央にはレバーがあります。
ほとんどのプレイヤーはこのレバーを引けばケージが開いて子供たちは助かると思うでしょう。
確かにレバーを引けばケージが開きます。
しかし、プレイヤーは子供たちだと思っていたキャラクターは、じつは人間の子供のように見えるモンスターなのです。
ケージから出てきた子供型のモンスターは、一斉にプレイヤーに襲いかかってきます。
プレイヤーはまず驚き、そして次のように考えるでしょう。
やっと徳を極めて最終ダンジョンにやってきたのに、ここでこの子供のように見えるモンスターをやっつけてしまったら徳のパラメータが下がってしまうかもしれない、あるいは、またこのダンジョンをやり直す羽目になってしまうかもしれない、と。

しかし、この時プレイヤーがどんな行動をとったとしても、ゲーム進行には何ら影響はありません。
このイベントはまるで徳を試すための試練のように見えますが、プレイヤーは子供型のモンスターに対してどんな行動をとったとしても、フラグや徳のパラメータは変動しません。
私がこのイベントを作った理由はただひとつ、この状況に対しプレイヤーは一体どう対応するか知りたかっただけなのです。
きっとプレイヤーたちはそれぞれ様々な行動をとったことでしょう。
子供たちにチャームの魔法かけて撤退させたり、スリープの魔法で眠らせたりすることもできます。
また、装備している剣を外して素手で攻撃し、殺さずに追い払うこともできます。
しかしこの部屋のイベントは、すべてのプレイヤーに対し精神的な葛藤を引き起こすでしょう。
ゲームプレイングを通じてプレイヤーの感情を揺り動かすというのは、実際のところ非常に難しいことなのです。
ですから、私はこのイベントを作ったことを(ゲームデザイナーとして)誇らしいと思っていますよ。

Ultima 4のリリースが近づいたある日、社内のQA部署(quality assurance=ゲームテスター)から1通の手紙が、社長である兄のもとに届きました。
手紙の内容はこうでした。
" このゲームには明らかな子供への暴力描写があります。もしこのゲームがゲームクリアのために子供たちを殺さなければならないような内容であるならば、私はこれ以上この会社で業務を続けることはできません。このシーンを導入するのはやめてください。もしどうしてもこのシーンを使うというのなら、私の方から会社を辞めさせていただきます。

この手紙を読んだ兄は私のところにやって来てこういいました。

"おいリチャード、お前は一体何をやらかしたんだ?"
"いや、私も彼が何を言っているのか、まったく検討もつかないんだ。

私は兄と共に色々調べた結果、彼が訴えているのは例の部屋のシーンのことであることがわかったんです。

"この部屋のことだったのか"

続けて兄は私にこう言いました。

"リチャード、このシーンは削除することにしよう"

私は反論します。

"ロバート、このシーンは彼の感情を揺さぶるような大きなインパクトを与えたんだ。これは凄いことなんだよ。それに、子供達のキャラクターを殺す必要だってないんだ。第一、レバーを作動させないという選択肢だってあるし、子供達を追い払うための手段だって色々ある。"

兄はなおもこのシーンの導入に反対しました。
さらに兄は両親にまでこの件について知らせ、家族ぐるみで導入をやめさせようとしてきたんです。
しかし私は頑としてこのシーンを導入することを固持しました。(註:実際にこのシーンはゲームに実装され、発売後も特に目立った批判は無かった)。
そしてその後も、子供達が死んでしまうイベントを(プレイヤーの感情を刺激する、という理由で)、後のタイトルにも恒例として導入してきたのです。

GGG:
感情を刺激する、という点ではUltima 3のボックスパッケージのことを思い出しますね。
悪魔のような大きなモンスターがデザインされ、さらにはエクソダスというサブタイトルが与えられています。
エクソダスは聖書に登場するワードですが、これは1980年代のサタニズムブームに乗って意図的に仕掛けたデザインなのですか?

RG:
いえ、そうではないんです。
8のペンタグラムのデザインは意図的だったのですが、3の時に限っては(サタニズムブームとの合致は)偶然のことなんです。
例えばホラー映画の中では、床に描かれたペンタグラムといったものがよく出てきますね。
さらにロウソクがペンタグラムの隅に立てられていて、そこで悪魔的な魔術の儀式を行う、という典型的なイメージを、多くの人が持っていると思います。
もちろんこの魔術的なペンタグラムに対してネガティブな感情を持つ人は多くいて、社の内外から8のパッケージデザインに対して批判がありました。
この件のせいで会社を辞めてしまうスタッフもいたんです。

この問題をめぐって、信仰とは何かということについて考えるいい機会になったと思います。

"本や映画の中ではペンタグラムはいくらも登場しているのに、どうして私のゲームのパッケージデザインに使ってはダメなんだ?"

と私がいうと、決まって彼らはこう言うのです。

"ペンタグラムについての本を読んだり書いたりするのは問題ない。映画の題材として取り上げるのもいいだろう。しかしあなたのように、それが意図的なものだとしても、興味本位でペンタグラムをデザインとして使うのはダメだ。そんなことをしていては、あなたは悪魔に魅入られてしまうよ。"

私はこういわざるをえません。

"あなたの言い分は分かった。が、私はとてもそれを聞き入れることはできない"

(Ultima 6の)ガーゴイルには、外見に対する人間の無自覚な偏見とそれが為に犯していた過ち、つまり、人種差別の問題を浮き彫りにする役目を負ってもらいました。
人はフィルター越しにものごとを判断してしまうものなんです。
そしてこれはペンタグラムの件に関してもそう言えるでしょう。
ペンタグラムはただのシンボルに過ぎないと私は考えています。
もちろんこのシンボルに不快な感情を抱く人もいるでしょう。
しかし、私はわざわざ人を不快するためにペンタグラムを用いたのではなく、パッケージのペンタグラムは、ストーリーを語る上でのひとつの仕掛けに過ぎないのです。
子供達がUltima 8をプレイしたとしても、その中身は(パッケージが連想させる悪魔崇拝的なものではく)徳を題材にしたストーリーとなっています。
そしてUltima 8のプレイ体験が徳という概念にふれる機会のひとつになるのならば、Ultima 8のパッケージにペンタグラムが描かれていたとて、一体誰が損をするというのでしょう?
この件があってから、私はワザと気分を害すようなシーンを用意し、プレイヤーの感情を揺さぶる手法を好んで使うようになったのです。
もちろんそれはいたずらにプレイヤーを驚かすようなものではなく、きちんとした論拠の上に成りたった意義深いものとしてね。

GGG:
今まであなたの元へ数え切れないほどのプレイヤーからの手紙が届いたと思います。
その中に、あなたのゲームをプレイしたおかげで悪魔崇拝趣味者になった、という人はいましたか?

RG:
(笑)
いえ、一人もいないはずです。まいりましたね。
しかし興味深いことに、Ultima 3のパッケージのエクソダスのデザインに関しては、それは全くの偶然だったにもかかわらず、様々な反響がありました。
もちろんUltima 3のパッケージから悪魔崇拝趣味的な印象を持った、という手紙もありました。
でも待って下さい。
Ultima 3のパッケージデザインは、実はディズニーのファンタジアに登場した悪魔(Chernabog)から着想を得たものだったんですよ。
みなさんご存じの、あの岩の上にたたずむ大きな悪魔のキャラクターです。
私はウォルト・ディズニーのデザインイメージを拝借しただけなのに、なぜか私だけが悪魔崇拝趣味者呼ばわりされてしまうんです。

私は常々、偽りの、表向きのイメージに騙されてしまう人々が多くいることに驚いています。
そしてそういったものに騙される人々は、ビデオゲームなどとは縁の無い人であることが多いと感じます。
彼らはものごとの表面的なイメージだけを見て、自分に都合のよい理解や思い込みをしてしまうのです。
Ultima 3のパッケージに関してそういった考えがあることがわかったのは、私にとって収穫でした。

Ultimaの場合もそうなのですが、演出のひとつとして、ゲームマニュアルをフィクションの読み物仕立てにする手法があります。
それぞれの魔法のショートカットキーがこのキーにそれぞれ相当する、とか、このパラメーターにはこういった意味がある、といった能書きめいたマニュアルよりも、私は読み物仕立てのマニュアルを志向していました。
まるで本物の魔法についての書物のようにマニュアルを綴るのです。
死人の魂を再びこの世へと誘う秘術: 何々と何々の秘薬を薬瓶へ共にいれ煮立つまで火にくべるべし。そののち死人の口に注ぎ、魔法の呪文を唱えるべし、などという風に書いてあります。
つまり、なるべく"それっぽく(realistically)"表現するように務めるわけです。

もちろん私は魔法の類が現実に存在するとは思っていません。
ですが、マニュアル執筆の際には参考資料としてオカルトめいたたくさんの数の魔法についての書籍を読みこみ、その文体や表現を学びました。
実際にそういった本を数冊も読んでみればわかることですが、本によって実にまちまちなことが書いてあります。
いくら読んだところで、それらの本に共通したパターンは見いだせません。
内容もまったく建設的なものでなく、体系めいたものも存在しません。
つまり、魔法の本のフィクションを書くのに必要なことは、理論や根拠を提示することではなく、"それっぽい表現"を追求することなのです。

数多の魔法の本を読んでいくうちに、私は魔法に関する図形やアイコン、シギル(印、魔方陣)のデザインに心を惹かれていきました。
内容こそ荒唐無稽なものですが、それらに用いられるビジュアルデザインには素晴らしいものが多くあったのです。
そして、それらから拝借したデザインを、初期のシリーズのいくつかのマニュアルに用いたこともあります。
特に思い入れが深いものは、ユダヤ教のラビ(指導者)が記したといわれる本の最後のほうのページ記されていたメッセージです。あまりに強い魔術が記されているということで、わざわざその呪文のページを封で閉じてあるのです。
そこの魔術のページにはシギルが記されており、なにやら奇妙なフォントで何かが書き付けられています。
解説によると、この奇妙なシギルとフォントはエホバが使う言語であり、複製することはならぬ…とのことです。
書いた本人とってはそのシギルは神聖なものだったのかもしれませんか、私にはそのシギルのデザインは非常にファンキーで魅力的なものに映りました。

----------------------------------------------------------------------

Part 2へ続く

0 件のコメント:

コメントを投稿

■過去記事アーカイブ